2017/07/28

荒木経惟 展「写狂老人A」へ






7/28:初台のオペラシティアートギャラリーへ。
荒木経惟さんの展覧会、「写狂老人A」をみに
行きました。入ってすぐの展示室で、若くは 
ない女性たちの裸体の、大きな写真がずらり。
乳房や腹が垂れたり、シワがあったりの裸体。
どうよ!わはは!と、深刻ではなく何か:美醜
(びしゅう、美しいことと醜いこと)とは何? 
とか、老若のこと、あれこれ、ぐわっと掴んで
引き込まれるような、問われるような。前に 
アートのわかりやすさとわかりにくさについて
雑記したけれど、そうそう、こういうことよ、
とにかく表現者の「ワールド」に巻き込む力と
いうか、それがしっかりしていれば極論、何も
タブーじゃない、何をやってもらってもいい。
アラーキー、お元気でキワキワ(最前線であり
危なっかしさ正道とを併せ持った存在)だ。 





毎回ではないかもしれないけれど、
この会場では企画展の撮影が可能な
ことが多い。撮影できるとなると、
きちんと作品と向き合って、2度と
みらんないかもしれない!と手帳に
スケッチしたりするのが減るのが 
残念なような気もするけど、手では
写しきれないものを捉えるのが写真
…でもある。(私の写真は芸術作品
ではなく、単なる記録だが)。  



アラーキー自身も、日記のように写真を撮っていて、 
その一連の流れの中には第一展示室で見た裸の女性の 
姿もあり、新聞の訃報欄や、私の好きな画家の一人・ 
ルーカス・クラナッハが描いた残酷な絵(生首を持つ、
ユーディト像)や、精力剤の新聞広告(女性がうっとり
した顔で「すごい…」と文字が入っているもの:3つも
あった)、死・性・食・生、といったものがバラバラと
混じり合って展示されていて、その混沌とした感じは 
アラーキー自身の日常というだけでなく、生きる人々 
すべての日常のようだな、とも思う。死への恐れも、 
美味しいご飯も、生活の雑事も、どれか一つだけを  
感じる一日なんてない。少し前のドラマ「カルテット」
で、泣きながらご飯を食べたことがある人は生きて  
いけます、という印象的なセリフみたいに、苦しくても
腹は減る。生きてても、いつかは死んじゃう。    




このシリーズが見応えあり。私も新聞や雑誌の
切り抜き・スクラップが好きで、どこが特に 
面白いかというと、全く関係ない写真や絵、 
文字)をスクラップブックに貼る時、隣同士、
何か通じ合うもの、シンクロするようなポーズ
だったりする感覚。トレーニングのつもりで 
やってるわけではない(単に楽しいからしてる
だけだけど)レイアウトというか編集脳が  
鍛えられるような気がします。       




(上の写真は荒木さんの撮影したものではなくて 
私のスクラップ帳です)3年前に書いたブログより


余談ですが、アラーキー(と私)といえば、
私家版のHASAMI BOOKSを始める時に、その
予告として切り文字で全文を作るべし、と 
アイデアを投げてくれた佐藤温志さん、その
着想はアラーキーが写真家宣言を自筆で  
書いたのがある、からだそうでした。   





写狂老人A写真への旅 (光文社文庫)夜子

この展覧会の題字しかり、たくさんの写真集などでもアラーキーの文字は「彼の文字」で
パッと見て、わかる。文字に宿る個性や、「その人らしさ」が出るのは何故だろう?と、
昨今なぜか文字の仕事が多いので考えたりもする。ちなみに、「写狂老人A」の場合、 
「A」の横棒が右から左に書かれているんだな!と気づきました。           





いつかどこかで遭遇してみたい人だ、と 
ポスターに写る後ろ姿を見て感じました。
だいぶ歳は違うけど、同時代人でよかった
と思える芸術家の一人です。      







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